こんにちはKrei-Agriの設楽です。
今回から前編、後編で4つの戦争に触れていき、農業も触れていきたいと思います。その後編です。興味のある方は見ていってください。
もし間違い等がございましたら、コメント等でお知らせください。
第二次世界大戦前夜
勝利した国は、ドイツからの賠償金でがんがん投資をし、経済を回していた。これが、経済学が発展していなかった世界で、大きなミスを犯すことになります。
これが、1929年に起きた世界恐慌、第二次世界大戦のきっかけとなっていきます。
<なぜ世界恐慌が起きたのか?>
たとえ話になりますが、国民が、誰もスマートフォンをもっていないとしましょう。そこで、賠償金でその工場に投資をしました。
そのおかげで、生産は加速され、利益を獲得していきました。それでもっと投資を行ないました。
ある程度までは、うまくいくのですが、失速する瞬間が訪れます。
それが、国民全員が、スマートフォンもった瞬間です。この瞬間に需要と供給のバランスが崩れます。

バランスが崩れた瞬間に、利益が獲得できなくなります。そうなると、スマートフォンの価値が下がります。
そうすると、会社自体の株が下がります。それが、同時多発的に世界経済の中心のアメリカで起き、世界へと拡大していきます。
<各国の対応>
お金があるアメリカは、株価の大暴落により、失業者を雇用するために公共事業を増やします。めっちゃダムを作りました。これに危機的状況を打破しました。これを、フランクリン・ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」です。
世界恐慌に対応するために、自国と植民地の貿易を強化し、自国の経済圏を活性化させました。これを、「ブロック経済」と呼びます。
ドイツ、日本などは、何も対策が打てませんでした。そこで、たどり着いた結果は、「ファシズム」です。
自分たちだけは、助かろうとする考え方です。
つまり、戦争も辞さないのです。日本は、満州事変を、ドイツは、ポーランド侵攻をおこしました。これは、許し合えなかった結末です。今回は、日本の満洲事変について詳しく触れていきたいと思います。
満州事変~太平洋戦争
「満州事変」(1931年)は、南満州鉄道を日本の自爆(柳条湖事件)を発端とする中華民国との武力闘争です。
日本が、満州を占領して、満州国を建国し(1932年)、ラストエンペラーこと溥儀が、傀儡政権(操り人形)として、トップに着きました。リットン調査団によって、満州事変の調査が行われました。
そこで、自作自演がばれてしまいました。戦争へ向けて、対外的なリミッターを外していきます。戦争をしないために設立された国際連盟を日本は脱退します(1933年)。
今度は、戦争へ向けた国内のリミッターを外していきます。それが、犬養毅を暗殺した五・一五事件(1932年)と陸軍将校がクーデターを起こした二・二六事件(1936年)です。中華民国に報復をします。それが、日中戦争です(1937年)。
そのまま太平洋戦争(1941年)へとつながります。
太平洋戦争
1941年、日本が真珠湾を奇襲します。
日本の考え的に、すぐけん制をして、すぐ終戦に向かう予定でしたが、真珠湾の奇襲により、アメリカは、「Remember Pearl Harbor(真珠湾攻撃を忘れるな)」を合言葉に徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。
海洋国家である日本は、海軍、空軍は世界的に見ても、46mm3連装砲でも有名な戦艦大和や世界最高の飛行性能を有した零式戦闘機(ゼロ戦)を筆頭にトップレベルでした。しかし、日本は、資源が少ないため、長期戦になればなるほど、不利な状況でした。

ある試算では、資源ベースで700倍もの差がアメリカとあったそうです。
そのような状況で、戦後改革に見られるようにアメリカに恐怖を与えられた日本の技術力や精神的な部分では、褒められたことではないのですが、誇ることができたのではないでしょうか。
ミッドウェー海戦の敗北をきっかけに、暗号が解読されたと言われており、激戦地ガナルカナル島の戦いにより戦艦や兵員を多く失いました。
そこからレイテ島やグアム島を経て、徐々に詰め将棋のように敗北へのカウントダウンが始まっていきます。詰め路が確定した硫黄島の戦いでした。ここをとられると、本土爆撃が開始されます。私は、戦争をやめる最後の分岐点だったように感じます。
ですが、やめるにやめられなかったのか、正常性バイアス(危機的状況で、自分は大丈夫であると思い込み精神的ストレスを回避する防衛反応)だったのかわかりませんが、唯一の本土戦へひめゆり学徒隊でも有名な沖縄戦へ進んでしまいます。
日ソ不可侵条約を破棄したソ連が攻め込んできたので、ドイツ分断の二の舞を演じることのないように最終兵器原子爆弾を投下し、日本は、無条件降伏ポツダム宣言を受け入れ、8月15日終戦となりました。太平洋戦争は、多くの作品で取り上げられています。
たとえば、

『永遠の零』、

『風たちぬ』

『硫黄島からの手紙』などです。
その後、GHQ(General Head Quarters:連合国軍総司令官総司令部)のトップ、ダグラス・マッカーサー

によって改革が行われますが、昭和天皇の懇願により、十分な対応がなされ、現在の豊かな日本があるのです。
農地改革
戦後、深刻な食糧不足、インフレなどの情勢下、GHQ指令の下で農地改革が推進され、小作農(土地をもっていない)を減少させ、自作農(土地をもっている)を増加させるものでした。
このあたりから、資本主義と社会主義の戦い(冷戦)が激化してきていたため、資本主義のアメリカの手前、日本政府は、農地を買い上げ、小作人に安く売り渡しました。
資本主義なので、お金を媒介させました。この農地改革は、デメリットもありました。
それは、経営規模の小規模化、土地所有者の細分化など現代の農業の課題にも繋がっています。また、1970年以降は米余りに直面し、就農人口の減少、グローバリズム、地球規模の環境問題などの課題も農業は抱えています。
耕運機、田植え機、コンバインなど稲作の機械化が進み、さらに、ビニールハウスなども石油製品で、温室の保温にも石油などの燃料消費に直結しています。一説には、ハウス栽培で、トマトをつくるのに、石油200mlも使っているそうです。
まとめ
・戦争はしないほうがいい
・農地改革のデメリットに今苦しんでいる
・大量エネルギー消費栽培をどうにかしなければならない
以上です。今回でとりあえずひと段落したので、日本の農業の歴史の最終回としたいと思います。今までご覧いただきありがとうございました。
まだまだ触れられなかった部分が多くありましたが、大まかな流れはつかめると思います。
ぜひ、勉強のきっかけにしていただけると嬉しいです。