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【日本の農業の歴史パート4】「鎌倉時代の農業と貨幣経済の始まり」~歴史から失敗を学び取ろう!でないと…~

こんにちはKrei-Agriの設楽です。今回は、やっと前回平安時代が終わったので、鎌倉時代です。興味のある方は見ていってください。もし間違い等がございましたら、コメント等でお知らせください。

鎌倉時代ってどんな時代?

前回は、貴族が中心の平安時代時代から、源平合戦で時代の中心は、武士へと変化していきました。貴族は、蹴鞠(けまり)をしたり、扇子であおいじゃったりしてますので、そりゃあ、鍛えまくってる武士に勝てるわけありません。

ここから600年以上武士が主役です。この時代は、武士のトップを、将軍と呼び、家来の部下を御家人(ごけにん)と呼びます。この両者の関係は、封建制度と呼ばれています。

封建”この漢字きちんと読めますか?“ふうけん”ではありません。正しくは、“ほうけん”と読みます。学校の先生や塾の先生でも、間違っている先生もたまにいますので、訂正してあげましょう。
先生―“ふうけん”じゃないよ、“ほうけん“って読むんだよー」って。
(こういうなめた事いってるやつは、藤原道長や平将門のようにろくな死に方しないので、注意しましょう。歴史が物語っていますね。)

 

封建制度とは、土地を仲介した主従関係のことであり、具体的には、将軍は、御家人に領地の所有を認め、成果をあげると新たな領地を与える「御恩(ごおん)」と御家人は、御恩を受けた将軍に忠誠を誓う「奉公(ほうこう)」の関係のことです。

記事をご覧になったみなさんなら、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、フラグが建築されました。覚えておいてください!この関係の一番重要なポイントは、土地を仲介しているところです。

鎌倉時代始まってそうそうに激ヤバなことがおきます。権力闘争に巻き込まれ、源氏のトップ将軍源頼朝の直系の子孫が途絶えます。

そして、将軍の補佐役である執権(将軍の補佐役は、時代によって呼び方が異なるので、注目!!)が、実権を握りました。
執権は、源頼朝の奥さんの家系北条家が代々勤めています。

この記事をつくるようになって知ったことなのですが、北条家の血筋は、なんと、平氏側の天皇の血筋から分岐したようです。

そんなゴタゴタを知った天皇(朝廷側)は、実権を取り返そうと、反乱を起こします。それが、1221承久の乱です。
(ゴロ:ワンツーツーワン承久の乱)

(このゴロは、QuizKnockの東大大学院の須貝駿貴さんが動画内で言っていたゴロです。動画を見ていて、爆笑してしまったので承久の乱のゴロは、採用させていただいています。)

承久の乱の主犯は、後鳥羽上皇です。すでに、源頼朝は亡くなっていたので、御家人を集め、鼓舞したのが、妻北条政子です。

『吾妻鏡』より 北条政子のことば

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。
故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。
而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。
但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。

訳:『吾妻鏡』より 北条政子のことば

皆、心を一つにして聞くように。これが私の最後の言葉です。
亡き頼朝は、平家を倒し、関東に幕府を創設して以降、朝廷より、良い役職をもらい、給料もよくなった。その恩は山よりも高く海よりも深かった。そのことへの感謝の気持ちは決して浅いものではありません。
ところが裏切り者によって、後鳥羽上皇は、わけわからん幕府追討の命令を出されたのです。恥を知り、名を惜しむ御家人ならば、ただちにわけわからん命令を出させた藤原秀康、三浦胤義等を打ち取って、暗殺された三代の将軍の恩に報いる(鎌倉を守れ)べきです。
ただし、もし幕府ではなく上皇の味方をしたいならば、今ここで、その意思を明らかにして、私を殺してから、京都へ行け!

考察:『吾妻鏡』より 北条政子のことば

私が現代語訳してみました。実は、論点のすり替えが起きており、
源頼朝の御恩に報いなさい→裏切り者を打ち取れ→鎌倉を守れ
と直接的に言っていないのに、鎌倉を守れと伝わるようないい方です。

さらに、御家人には、逃げ道が用意されており(だたし以降の文)、自分の意思で行動したと錯覚するような言い回しです。
日本の演説のなかでも、トップレベルなのではないかと思っています。

首謀者である後鳥羽上皇ら3人の上皇は、隠岐の島などに流刑(島流し)されました。また京都の動向を探るため、六波羅探題いう役割を作りました。

鎌倉時代の農業

平安時代に、始まった二毛作が、全国で行われるようになり、始まります。おさらいですが、二毛作とは、1年で二回、同じ耕地で異なる作物をつくることを言います。
(テスト的には、二毛作が始まったは、鎌倉時代のキーワードです)

さらに、農民が、組織化されていきます。荘園には、農業経営と納税を負った名主とその下に小百姓、名主の奴隷的立場の下人で耕していました。地方に配置された地頭と対立などが、起きていたそうです。

なので、名主サイドは、年貢の減免の要求や現在のストライキ的な「逃散(一時的に隠れる)」などが行われたそうです。これらが認められているなんて、現在の日本の労働の権利みたいです。
しかし、永遠に田んぼから逃げる「逃亡」は、処罰されていました。

また鎌倉時代になると、月3回の定期市が、開催され、日用品などを販売する商人も増えてきました。このことからわかることは、貨幣経済(モノをお金で買う)が発展したということです。
定期市で使われていたのが、中国から輸入した宋銭です。

Wikipediaより

 

このころのお金は、銅でできているものでした。江戸時代などになると金や銀など高価な金属でできているお金とかもでてきます。

~お金の価値にまつわるQ&A~

Question

昔は、金や銀など高価な金属を使っているので、貨幣自体に価値があることわかりますね。

しかし現代の貨幣は、安い金属や紙、プラスチックなどでできたものです。それにもかかわらず、現在の貨幣はなぜ価値があるのでしょう?

何気なく使っているお金ですが、これを理解している人は、多くはないでしょう。このように身近な疑問を持つことそれが、学問のスタートです。受験のためだけに勉強することは、学問ではないと思っています。これくらいで答えは見えないかな。

Answer

それは、日本が貨幣に価値があることを補償しているからです。
言い換えると、その貨幣には、信用があるからです。

補足:貨幣経済を鑑みる。「信頼と取引」

時間を巻き戻し、物々交換をしている時代を想像してみましょう。あなたは、信用がある人と信用がない人が同じものを持っていたら、どちらと物々交換がしたいですか?

おそらく、信用がある人と交換するのではないでしょうか。価値があるものを交換する際には、信用ということが大切になってきそうです。時代が進み、物々交換の回数が、増えてくると、信用できる人を作ることがめんどうになっていくのです。

そこで、その信用を人から高価な金属に変えたのが、貨幣経済スタートです。さらに時が進み、貨幣の流通量が増えていくと、重い金属では、持ち歩くのに不便です。

明治時代のころ、金属の代わりに紙のお金にし、金との交換が必ずできるということを国が価値を補償し、紙に価値をすり替えたのです。
こうして貨幣経済2がスタートしていきます。

さらに、時が進み、貨幣量に対して、金の量が足らなくなってしまったので、必ず交換できる制度をやめ、国が価値を補償するという形で、現在の貨幣経済3となっていくわけです。

これで、原価24円の紙切れで、1万円の買い物ができる原理は理解できましたか?これが理解できると、ビットコイン(仮想通貨)が、価値を持つのかもわかりますね。

まとめ

・封建制度の読み方は、「ほうけんせいど」。

・農業が組織化され始めた。

・鎌倉時代に貨幣経済が発展した。

・紙切れの1万円札が、1万円分の価値を持つのは、信用のおかげ

以上です。ご覧いただき、ありがとうございました。今回は、農業自体の進歩というより、農業の取り巻く環境が変わったというお話でした。次回は、鎌倉幕府を滅ぼし、室町時代へと話を進めていこうと思います。