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【日本の農業の歴史パート2】「律令国家と農業」~計画性のなさがうかがえる~

こんにちは、Krei-Agriの設楽です。
今回は、学校の歴史でも扱う内容も増えていきます。

ゴロ合わせ的なものも、交えながら、農業の歴史を触れていきましょう。興味のある方は見ていってください。
もし間違い等がございましたら、コメント等でお知らせください。

 

律令国家の成立

教科書みたいな見出しからスタートしたパート2ですが、この時代の農業を話す上で、避けては通れないのか「律令(りつりょう)」です。

律令」とは、律は、刑法を表し、令は、それ以外の法律を指します。すなわち、中央集権的な統治制度が導入されました。

ちなみにパート2は、パート1からかなりの時間が経過しています。前回の「くに」がさらに拡大して、大きな「くに」となり、そのリーダーが天皇であり、権力者が豪族という時代です。

教科書的には、聖徳太子とかも出てくるのですが、あまり登場させる意味がないので、割愛です。話を戻そう!

時は律令国家成立のちょっと前、チーム天皇とあまりにも権力を持ちすぎた豪族 チーム蘇我氏、なかでも蘇我さん家の入鹿くんが天皇の座を奪おうとしています。
ぶちぎれたチーム天皇は、調子に乗っている蘇我さん家の入鹿くんをしばきます。これが、世にいう645年「大化の改新」です。
(ゴロ:無事故<645>の改新)

このゴロ合わせ個人的には、納得してなくて、蘇我さん家の入鹿くんがしばかれてるのに、無事故だと言い切っている当たり、歴史は勝者の物語なのだと感じますね。世知辛い世の中です(笑)。

そんなこんなで、豪族を弱体化させ、土地、人民はすべて天皇のものとするジャイアンみたいな制度「公地公民」が成立していき、律令国家の土台が完成していきます。その後、701年に「大宝律令」が制定されました。
(ゴロ:なお良い(701)法律、大宝律令)

 

律令国家の農業

大化の改新の直後、「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」がだされ、国家から農民に土地を(強制的に)貸し出されます。

その土地を「口分田」といい、6歳以上の男女に与えられ、男子は2段(たん)、女子はその3分の2で、死後は返さないといけませんでした。

国もただで土地を貸しているわけではなく、農民は税を納めなければならなかったのです。その名も「租・庸・調」です。

メモ ~田んぼの単位~

2段(たん)ってなんやねんと思った方も多いのではないでしょうか。私も最近、農業を始め、田んぼを数える単位が、鬼やばいことにいらいらしています。


理系の私から言わせたら、SI単位系(国際的に定められ、世界中で広く使用されている単位系)で書けよと思いますが、仕方ないので、紹介します。

表1:田んぼの面積単位

単位

倍率

SI単位系

備考

1歩(ぶ)

 

約3.31 m

畳2枚分

1畝(せ)

1歩の30倍

約99.2 m

約1a (アール)

1反(たん)

1畝の10倍

約992 m

約10 a

1町(ちょう)

1反の10倍

約9917 m

約100 a

a(アール)

 

100 m2

100 a = 1 ha

私この表つくりながら、発狂しました。Why Japanese people?(©厚切りジェイソン)どうしてだよ!!

気が付かれた方も多いでしょう。田んぼの単位に段(たん)がない…。キレそうです。ちなみに1段は、360歩らしいです。つまり720歩=約2,400 m2です。
大体横浜ランドマークタワーの1階部分と同じだそうです(こういう換算もよくわからない)。

私は、あれ、思ったより広くね!って思いました。当時の方も同じことを思ったのでしょう、戸籍上女の子しか生まれない村があったそうですよ。メルヘンかよ!!

 

律令国家の「税」。租・庸・調

さて、前述の通り班田収授法によって貸し出される土地、つまり口分田のために農民は租・庸・調なる「税」を払わなければなりませんでした。

表2:農民が納めなければならなかった税の特徴

特徴

田1段につき、2束2把(にそくにわ)納めるもの。

大体3~10%の税率。

20歳以上の男子に、都にきて働けというもの。

遠くて無理な場合、布や米を納めるもの。

調

17~20歳の男子に、繊維製品を納めるもの。

地方の特産品や貨幣も認められていた。

特に大変だったものが、庸と調で、なんと都まで運ばなければならなかったのです。さらに、「雑徭(ざつよう)」と呼ばれる労働や「防人(さきもり)」と呼ばれる兵役があり、かなり大変な暮らしをしていたことがわかります。

当時の和歌集に万葉集(令和もここの歌から取られたもの)があり、その中に防人歌が多く収録されており、最も有名なものは、「唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして」である。

意味は、「唐衣(旅にでるための一張羅)にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに」というものである。

多くの方は、防人の唄というと“さだまさし”が出てきますね。私もその一人でした(笑)

こんな苦しい生活から逃げ出してしまう人が続出し、さらに、私は、あれ、思ったより広くね!って思ったことを、当時役人も気が付き始めます。

国民に貸す「口分田」が足りない…。あほですねー(計画性のなさがうかがえる)

公地公民」の要であった、「班田収授法」が崩壊していき、743年に「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」が制定されます。
(ゴロ:公地公民なんてなしさ<743>)

墾田永年私財法」は、自分で作った田んぼは、ずっと自分のものですよとした法律です。これにより、次の時代の「荘園」と呼ばれるものが生まれてくるのです。

 

まとめ

・蘇我さん家の入鹿くんがしばかれて、律令国家本格始動。

・公地公民の柱の「班田収授法」が、約100年でなくなる。
(計画性のなさがうかがえる)

そういえば今回あまり農業について触れてないような…。(計画性のなさがうかがえる)

以上でパート2終了です。ご覧いただき、ありがとうございました。